2006年 07月 07日
自分を取り戻す幸運~フェミニストカウンセリング
この一年、日替わりメニューのように体の不調があって、いよいよ更年期にさしかかり、自分の「体」を再認識させられている。「更年期」を共有する同年代の友人たちの間では、「わたしたちは、お年頃だからね」というのが、なかば挨拶代わりになっている。私自身まさに「お年頃」といった感じで、節目にある「体の変調に悩まされ、それにつれて「これまでの自分」「これからの自分」ということをあらためて考えることが多くなった。
そんな折に、友人がマドンナのCD「アメリカン・ライフ」をプレゼントしてくれて、その歌詞に私はとてもひきつけられた。
アメリカン・ライフ
マドンナ / ワーナーミュージックジャパン
♪♪ 別名を名乗らなくてはいけないの?
それでどこまで出世できるの?
減量すればいいの?
あたしはスターになれるの?
男の子になろうとした 女の子になろうとした
無茶をしようとした ベストを尽くそうとした
(中略)
なのに,いつの間にか忘れてしまった 何のためなのか ♪♪
という歌詞である。
私がフェミニスト・カウンセリングと出合ったのは、結婚・家庭・近所というなかで、これまでの自分が疎外され奪われていくこと、全体としての「自分」ではなく、女としての「部分」を生きるように強いられることに疑問を抱きながらも苦しんでいるときだった。食事も採れなくなり、外出もできなくなって、不定愁訴を繰り返した。
それ以前を振り返ってみても、私自身のなかで「女であること」と「自分であること」とが、うまく調和できなかったと思う。マドンナの歌に倣って書くと、思春期には、「中性的になろうとした」「規格外になろうとした」。そうやって「女」と見られることを拒んできたけれど、そんな自分を評価できているわけではなかったし、どこかで「不適応」な自分と感じていた。だから、その時の「これまでの自分とは別の自分にならないといけないの?(マドンナの歌う「別名を名乗らなくてはいけないの?)」というのは、思春期以後の私の悩みの総決算だったのかもしれない。
フェミニスト・カウンセリングはそんな私に、自分を語る「ことば」を取り戻させ、「自分で自分を定義していいのだ」と「わたし」を取り戻させてくれた。
みなさんは「別名」で定義されたり、名乗らされたりすることはありませんか?
更年期というターニングポイントで、もう一度「わたし」と向き合いたいこの頃です。
(WCKニュース第29号より転載)
※以下の広告は自動機能によるものであり、ウィメンズカウンセリング京都とは無関係です。ご注意下さい。
そんな折に、友人がマドンナのCD「アメリカン・ライフ」をプレゼントしてくれて、その歌詞に私はとてもひきつけられた。

マドンナ / ワーナーミュージックジャパン
♪♪ 別名を名乗らなくてはいけないの?
それでどこまで出世できるの?
減量すればいいの?
あたしはスターになれるの?
男の子になろうとした 女の子になろうとした
無茶をしようとした ベストを尽くそうとした
(中略)
なのに,いつの間にか忘れてしまった 何のためなのか ♪♪
という歌詞である。
私がフェミニスト・カウンセリングと出合ったのは、結婚・家庭・近所というなかで、これまでの自分が疎外され奪われていくこと、全体としての「自分」ではなく、女としての「部分」を生きるように強いられることに疑問を抱きながらも苦しんでいるときだった。食事も採れなくなり、外出もできなくなって、不定愁訴を繰り返した。
それ以前を振り返ってみても、私自身のなかで「女であること」と「自分であること」とが、うまく調和できなかったと思う。マドンナの歌に倣って書くと、思春期には、「中性的になろうとした」「規格外になろうとした」。そうやって「女」と見られることを拒んできたけれど、そんな自分を評価できているわけではなかったし、どこかで「不適応」な自分と感じていた。だから、その時の「これまでの自分とは別の自分にならないといけないの?(マドンナの歌う「別名を名乗らなくてはいけないの?)」というのは、思春期以後の私の悩みの総決算だったのかもしれない。
フェミニスト・カウンセリングはそんな私に、自分を語る「ことば」を取り戻させ、「自分で自分を定義していいのだ」と「わたし」を取り戻させてくれた。
みなさんは「別名」で定義されたり、名乗らされたりすることはありませんか?
更年期というターニングポイントで、もう一度「わたし」と向き合いたいこの頃です。
(WCKニュース第29号より転載)
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by wck-news
| 2006-07-07 22:11
| エッセイ